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自己紹介

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はじめまして、ちあきといいます。

広いネットの海の中、Webサイトにお越しいただき、どうもありがとうございます◎

私は、保育士の仕事を育休中でお休みをしているどこにでもいるごく普通の二児のママです。

しかし、育休復帰を前にして、Webマーケティングを活用して、お仕事をしていこうと決意しました。

目標は、保育士の仕事を続けながら1年後に月収10万円2年後にフリーランスに移行して月収20万円以上を達成しシフト勤務生活から卒業することです!

なぜ、どこにでもいる普通の二児ママが保育業界と全く異なるWebマーケティングの世界で仕事をしていこうと思ったのか。そのきっかけを含めて、自己紹介をしていきます。

ちあきについて

名前:ちあき
性別:女
生年月日:1991/12/04
職業:保育士

家族構成:同い年の旦那さん、2021年夏生まれの娘、2023年冬生まれの息子(1歳半差の年子!)、育児休暇中の私の4人家族

趣味:
アニメを見ること 推しアニメは「ハイキュー!!」
国内・海外旅行 夢は47都道府県制覇!
読書
音楽を聴くこと 推しはYUKIちゃん。
noteを書くこと(現在、子育て日記・エッセイを書いています)

座右の銘:
「死ぬまでどきどき・わくわくしたいわ」
YUKIちゃんのJOYという曲の歌詞です。

 

平凡な幼少期と絶対に「先生にならない」と決めた高校時代

私はごくごく普通の家庭に長女として生まれました。

建設の仕事をしている父と専業主婦の母、かわいくて大好きな弟の4人家族。

小学校高学年の頃から私の希望で犬を家族に迎え、5人家族だった時期もありました。

 

普通に町の幼稚園に通い、普通に小学校に通い、習い事をしたり、友達と遊んだり。何も考えずに過ごしていました。目立つわけでもなく、小・中学校の成績も特別すごいってことはなく、「ザ・平凡な女の子」。それが私でした。

あまりにも特徴がないので、あえて挙げるなら、幼稚園から水泳、小学校でバレーボール、中学高校は陸上をしていて、中学高校での運動神経はよかったです。体育の体力測定の成績で校内女子1位を取ったことがあります(笑)それでも、部活動では県大会止まり。特別な成績を残すことはできませんでした。やっぱり私はどこまでも平凡だったのです。

のらりくらりと生きてきた私ですが、高校時代に転機が訪れます。

それは、高校時代の部活の顧問かつ担任が、超がつくほどのパワハラ教師だったのです。

どんな点がパワハラかというと、

  • 一度叱られたら2週間くらいガン無視される。
  • 授業の合間を使って職員室に通っての謝罪を要求される。
  • お説教部屋があり、そこで1~2時間くらい怒鳴られ続ける。(部活の時間)
  • 顧問かつ担任だったため、クラスでもよく全員の前で立たされ怒鳴られる。
  • 「お前に授業を受けさせる価値がない」と教室から追放されて、廊下で立たされる。

これが日常茶飯事でした。

こんなのおかしい、と思うかもしれません。

でも、逆らえませんでした。

私は子どもで、相手は大人。始めはこんな仕打ちを受けるのはおかしいと行動していた私ですが、部活の先輩たちも諦めていましたし、他の先生は助けてくれませんでした。そのうち現状を変えることをすっかり諦めてしまったのです。

そんな世も末な高校ですが、肩書は田舎の進学校。日頃から志望大学や希望する学部を書く機会が多く、高校1年の夏には絶対に「先生」という職業にならないと固く決意し、

希望する学部:教育学部以外

と書いて提出したこともありました。(提出先が進路の先生だったので。提出先が顧問かつ担任なら、こんなことしませんよ。笑)

 

リーマンショックと母のリストラで人生が変わる

正確な時期は思い出せないのですが、たしか私と弟が小学生になった頃、母は働き始めました。真面目に事務として働いていましたが、リーマンショックがあった2008年にリストラされてしまいます。

当時、私は高校生。田舎の進学校に通っていて、周りの子はみんな有名私立大学や国公立大学を目指しています。私も当然自分が大学に進学するものと思っていました。ですが、母のリストラでその前提がひっくり返りました。父は「女に学力はいらん。」と私の進学したい気持ちに否定的でした。

母は必死で再就職活動をしていましたが、社会人経験が乏しく苦労していました。求人情報雑誌を見ながら、ぽつりと「資格さえあれば…」と呟いた姿は今も脳裏に焼き付いています。

幸運にも母はなんとか再就職をすることができ、私の進学を許可してくれました。

もともと英文学科で英語をマスターしかたった私ですが、母の「資格さえあれば」の一言がどうしても忘れられませんでした。

「生きていくにはお金と資格が必要だ」と考え、私は教育学部には行かないと決意をあっさり捨て、志望学部を英語系の学部から教育学部に変更しました。

将来、子どもがいなくなることはないだろう、だから教師という仕事はなくならないし、その資格さえあればきっと仕事に苦労しない=お金に苦労しないと10代の私は考えたからです。

 

受験失敗と大学生活

結論から申し上げますと、受験には失敗しました

母の再就職前後は本当にお金がなく、大学の受験料も自分の今まで貯めていたお年玉で支払ったんですよ。それなのに、国公立大学には落ちてしまったときは、悲しみを通り越して笑えました。

滑り止めの私立大学に合格し、実家から通える範囲内だったのと、他の私立大より学費がほんの少し安かったので、そこに進学することになりました。

学部は福祉学部。保育士と幼稚園教諭教員免許状を取得できる学科で、とにかく資格をとることばかり考えていました。周りの友達はみんな子ども好きで保育士や幼稚園の先生を目指しているのに、私は将来食べるのに困らなそうな職業だからという気持ちで勉強していることにギャップを感じながら過ごしていました。

ですが、保育の勉強は学べば学ぶほど面白く、その魅力にハマっていきました。入学したての頃の「将来返済しなきゃいけない奨学金で大学に通っているのだから、元取るために勉強しよう」という気持ちは嘘のように消えました。

大学生活でしっかり学び、2014年4月から埼玉の認可保育園で保育士として働くことにしました。

 

初めての保育士の仕事と本当の夢:留学

2014年4月から保育士としての就職が決まりましたが、その後、シフト勤務に対応できない現実を知ります。

大学がある近隣の保育園に就職し、家から通うつもりでいました。大学も実家から通っていたからです。大学の1限目は9:00~ですが、保育園の一番早いシフトは朝の7:00~。少なくとも6:45には園に到着していなければなりません。始発の電車でぎりぎりか微妙なライン。悩んだ末、私は実家を離れ、1人暮らしをすることにしました。初めてシフト勤務にもやもやした瞬間でした。

 

保育士として一生懸命働き、やりがいを感じていたある日。延長保育の時間に卒園間近の年長さんの女の子に聞かれます。

「先生は大きくなったら何になりたいの?」

その瞬間、私は本当は自分が英文学科に行きたかったこと、留学したかったこと、英語を話せるようになりたかったことを思い出しました。

それから仕事に対して迷いが出始め、思い出した英語の夢を断ち切れずに、保育士の仕事を辞め、全財産で16週間のフィリピンへ留学に挑戦することにしました。

 

フィリピン留学とその後

憧れだったフィリピン留学の16週間は、夢のような時間でした。

ベトナム人、韓国人、フィリピン人の友人たちとよく遊び、海に行ったり、外食したり、もちろん英語の勉強も頑張りました。生きていて一番楽しかった時間かもしれません。ベトナム人のルームメイトとは、留学後にベトナムまで遊びに行きました。今も連絡を取っています。

英語のレベルは留学初日のテストで下から3番目の初級+。帰国前には中級+まで上達しました。日常会話はできるけど、帰国後すぐに受けたTOEICのスコアは700点未満。やっぱり平凡

英語を使う仕事をしたかったものの、雇ってもらえるだけのレベルはなく、かと言って無職でいるわけにもいかず、結局また保育士に戻りました。英語も使う保育の仕事だったので、「まあ、保育の仕事は嫌いじゃないからいいかー」とその時は安易に決めてしまいました。

 

英語が話せるの保育士なのに薄給な現実

英語が話せる保育士として就職した英語の幼稚園。幼稚園だったので、保育園のように早朝や夕方の延長保育はなく、働きやすかったのですが、お給料が驚くほど少なかったです。正社員なのに、年収300万円に届かない。私の保育士新卒1年目と同じお給料の額でした。

英語を話せることも保育士としての仕事も好きでしたが、昇給は望めず、私には奨学金の返済もあり、厳しい経済状況だったので退職を決意。

その後、恋人からプロポーズされ、結婚。彼は自営業で家族でお花屋さんをしていましたが、2人で生活していけるお給料ではなく、私はすぐにまた保育士として働き始めました。

 

ごく普通の結婚生活

結婚した翌年がコロナの2020年でした。夏に予定していた結婚式は延期し、冬に半ばヤケクソで親族のみで結婚式をあげました。

実は結婚してすぐに私の不妊体質が発覚しましたが、当時まだ20代だったことと不妊治療スタートが早かったことが幸いし、治療開始から約1年後の29歳の誕生日に妊娠が発覚し2021年夏に第一子を、第二子は自然妊娠で2023年の冬に出産し、1歳半差の年子二児のママになりました。

現在育休中で2024年4月からフルタイムで復帰予定です。

 

育休復帰前にして気づいたこと

年子の子どもたち2人の保育園入園の内定が出て、私も保育士として復帰できることになりました。

配属される園は、家から徒歩10分ほどの保育園でフルタイム。開所時間は朝7:00~夜19:00。

なんと、子どもたちが通う保育園と同じ開所時間なのです!!!

子どもたちを朝7:00に保育園に預けても、一番早い朝のシフト勤務には間に合わない。
子どもたちを夜19:00まで保育園で預けたとしても、一番遅い夜のシフト勤務をすることができない。

そして、時間固定勤務になると手当が大幅に減るので、お給料が減る。

時短勤務だと減額されるからフルタイムで復帰を申請したのに、結局が思うようにシフト勤務ができません。子どもが生まれる前までに働いていた金額の収入が得られないのです。

子どもたちとの時間を犠牲にして、これからフルタイムで働くのに、シフト勤務ができないとこんなにもお給料が得られない。シフト勤務とそのお給料の関係にまたもやもやしました。

同時にシフト勤務をして朝6:45に間に合うように出勤し、夜19:00まで働く未来も詳細に想像しましたが、そうすると子どもとの時間がおそろしく少ないことにも気が付きました。

 

Webでお仕事をするという選択肢を知る

これからの働き方に対して迷いと不安がでてきたところで、Instagramで私は「Webマーケティングのスクール」に出会います。

なぜ「Webマーケティング」にピンときたかといいますと、旦那さんのお花屋さんの業績がピンチだったからです。

とってもすてきなお花のギフトを売っているのに、集客ができない。

義理の母も旦那さんも、毎日のように頭を抱えていました。スタッフさんにお暇を出し、旦那さんのお給料を大幅に減額してぎりぎり持ちこたえていたのです。

その頃私はまだ育休中で入ってくるお金は少なく、旦那さんのお給料減額分を貯金でまかない、みるみる減っていく我が家の通帳残高。まだまだ手のかかる当時0歳と2歳の子どもたち。(そして今後お金がかかる)

絶体絶命でした。

ですが、私はひらめきました。このピンチを、Instagramで出会った「Webマーケティング」を学ぶことで脱却できると思ったのです。

Webマーケティングとは?
WebサイトやWeb上のサービス(SNSとか!)を利用して、商品やサービスが売れる仕組みを作るお仕事のことです。

ここで私がWebマーケティングを学んでお仕事にすることで、

保育士としてシフト勤務をしなくても生活できる収入を得られるかもしれない!
旦那さんのお花屋さんの集客をWebマーケティングの力で改善できるかもしれない!

と思いました。これは挑戦する価値があると思い、Webマーケティングの世界へ足を踏みいれることに決めました。

 

最後に

私はこれから、

保育士の仕事を続けながら1年後に月収10万円、2年後にフリーランスに移行して月収20万円以上を達成しシフト勤務生活から卒業することを目指して行動します。

平凡な保育士が本当にWebでお仕事ができるのか、シフト勤務を卒業して日中の稼働のみで、子どもとの時間も大事にできるのか、そして旦那さんのお花屋さんの業績を改善できるのか、挑戦します。

1年後に10万円、2年後に20万円を達成することが可能かどうか、その答えと私の赤裸々な記録はこのWebサイトをご覧ください!

私と同じような平凡な人でも、

「私もやってみたい!」
「私もシフト勤務を卒業したい!」

と思ったときに、参考にできるようにしっかり記録を残して発信していきます!

保育士としての子どもの成長記録の作成は得意だったので、自分の成長記録もがしがしメモして発信していきますね◎

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

明日もいい日でありますように!!!